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ドメスティック・エゴイズム

  • 15hono20
  • 2025年11月22日
  • 読了時間: 16分

更新日:4月13日

その日はいつも通り、仕事が終わったら迎えに来るよう夕里ちゃんからメッセージが入っていて。月に何度かのお戯れデート。夕里ちゃんの気が向いた時に、こうして気まぐれに連絡を寄越して来る。べつに特別俺に会いたいってわけじゃないんだろうけど、ちょっと外に出て気分転換したいとか、他人とゆっくり対話がしたいとか、人並みにそんな欲求を抱えることが夕里ちゃんにもあるんだろう。その捌け口として俺を選んでくれるなら、こんなに有難いことはない。

退勤後、夕里ちゃんを拾って、行きつけのイタリアンで夕食をとって。いつもの堤防に車を停めたら、海辺を散歩しつつ、月明かりの中で波のゆらめきを眺めて。灯台を回り込む数段ばかりの階段に座り込んでしばらく、秋の穏やかな風を受ければ君の身体はすっかり冷え切ってしまって。ひとまず俺のジャケットを羽織らせて車に戻って、帰ろうかと声を掛けると君は珍しく、もう少し話そうと言う。俺は少し迷って、じゃあうちで温かいものを飲もうと返し、キーを回してエンジンをかける。バックで切り返す間に、君は良いとも嫌とも言わず、静かにシートベルトを締めた。


俺がこの次元で暮らしているアパートの部屋。夕里ちゃんを招き入れるのは初めてじゃない。賑やかな場所に馴染めない二人だから、デートスポットとして自宅を選択することは自然な流れだった。少し散らかっているけどと断りを入れて、彼女を部屋に上げる。

不揃いのマグカップに二人分の紅茶を淹れて小さなダイニングテーブルに向かい合えば、話そうと言っていたはずの君は普段以上に物静かで。それでも、伏せられた君の長いまつげをただ眺めながら熱すぎる紅茶の飲み頃を待つのは幸せだと思った。寒くない?と聞くと少し寒いと君が言うから、ソファに移るよう促して、肩から毛布を掛けてあげる。正座を崩した形でお淑やかに小さくまとまる君は、ふわふわの毛布に包まれてますます儚げで愛らしい。毛布の中から覗く白く透き通る両手に、まだ紅茶の残っている温かなマグカップを渡す。俺も君の隣にお邪魔して、柔らかな布越しに手のひらの温もりが伝わるように、毛布の上から君の肩をそっと撫でて抱き寄せる。厭がられるかと思ったけれど、夕里ちゃんでも寒さには抗えないらしい。

こんなふうにして少しずつ、君のことを守りたい。冷たい秋風に晒された君を、あたたかくして大切にしたい。君は君のことを大切にしてくれないから、俺が代わりに優しくしたい。

腕の中に君がいる。君の体温が今、ここにある。それだけで十分で、なのに永遠に続けば良いだなんて思っていて。多くは望まないけれど、ただ、君に生きていて欲しい。贅沢を言うならば、俺の近くで。俺はきっと、そのためだけに生きている。君に生きていて欲しいから、俺は生きている。俺をこの世に立たせてくれる生命はかけがえなくて、離したくないと強く思った矢先、飲みかけの冷めた紅茶をローテーブルに置いた夕里ちゃんは毛布の中からするりと抜け出し、帰宅する旨を告げてきた。

俺は了承してジャケットを羽織る。夕里ちゃんもバッグを手に身支度を始める。それを見ていたらなぜだか、何かに追い立てられるような気持ちになって。

夕里ちゃんが玄関に向かおうと歩き出す。その背中に手を伸ばして、後ろからつい、抱きしめて引き止めた。

「泊まって」

俺はあらぬ台詞を口走っていた。

「……いって、ください……」

もっと下手に出なければと、後出しではあるがやや控えめに言葉を続ける。

「お願い、します……」

懇願の姿勢をさらに示し、夕里ちゃんの返事を待つ。無理に決まっている、諦めろと自分を宥める心と、気まぐれに受け入れてもらえるかもと期待してしまう心が激しく衝突して、心臓をドクドクと脈打たせている。体感にして数十秒、おそらく実際には数秒の沈黙の後、夕里ちゃんは感情の掴めない声色で答えを返した。

「……たまには褒美を取らせてやるべきかしらね」


延長の特別ご褒美タイム。とはいえ、別段恋人らしく甘いことはない。そもそも俺たちの関係は恋人と呼べるのかどうかすら、正直よく分からない。ただ、俺と夕里ちゃんの間にしかない絶妙な空気が流れていることは間違いないと思う。俺にとってただ一人、夕里ちゃんが特別な存在であるように、夕里ちゃんにとっても俺の存在が何か異質なものであるなら、それを恋だの愛だのと呼べなくたって一向に構いやしない。俺は俺が夕里ちゃんを愛したいから愛しているだけ、そして夕里ちゃんはそれをただ許容してくれているだけであって、そもそも夕里ちゃんからどうこう思われたいだなんて微塵も思っちゃいないんだから。

洗面台の鏡の前で自身の長い髪を乾かしながら、ついさっき乾かしてあげた夕里ちゃんの髪からも同じ香りがしたことを思い出して、心拍数が上がる。

今夜はもう、帰さなくて良いんだな。

いつも安全に送り届けることばかり考えていて、引き止めてしまったのなんて初めてだった。当然だ。俺は夕里ちゃんに自由であって欲しいと願っている。俺の欲求を満たすために、夕里ちゃんの自由が奪われてはいけないと思っている。だからいつもの俺なら、夕里ちゃんが帰ると言えば帰すはずなんだ。どうして今日は引き止めてしまったんだろう。明日がちょうど休みだったとか、夕里ちゃんの方もいつもと様子が違って見えたとか、色々なきっかけはあったかもしれないけれど。

いや、やめよう。こういう時にすぐ自己嫌悪に陥るのは悪い癖だ。夕里ちゃんは嫌なら嫌だと言う人だし、俺の誘いに乗ってくれたことを素直に喜べば良いのだろう。だって今夜はもう、帰さなくてもいいのだ。考えれば考えるほど、現実味がなくてなんだかよく分からない。ならば確かめに行くしかないか。

髪を乾かし終えてリビングに戻ると、夕里ちゃんは居なかった。想定内だ。健気に俺の風呂上がりを待っていてくれるようなタイプじゃない。じゃあこっちかと寝室を覗くと、照明は点いているのに夕里ちゃんの姿が見えない。おかしいなと思いつつも静かに入室し、入り口から対角に位置している枕元を覗き込めばやっと、君を見つけた。俺のベッドを悠々と占領して、毛布にくるまって既に眠ってしまっている。

愛しさが抑えきれない。俺に心を許してなきゃ、俺より先に眠ったりはしないだろう。貸したTシャツの長い袖口から、白くて細い指がちょこんと覗いている。夕里ちゃんはこんな無防備な姿を、俺には見せても良いと思ってるんだろうか。そういうことなんだろうか。

ベッドの横に座り込んで、君を見つめる。

このまま朝までずっと、君の寝顔を見ていたい。なんて幸せなんだろう。今夜は君が居てくれる。こんなにも俺の近くに。

世界で一番、宇宙で一番、愛しい。心臓がぎゅっとなって、呼吸が浅くなる。甘く痺れる、心地よい息苦しさ。こんなとびきりの幸せを与えてくれる、たまらなく美しい君に、俺は。

ひとつ、衝動が沸き起こる。手近にあった不要な用紙を細長く切って、すやすやと寝息を立てる君の左の薬指にそっと巻きつけ、ペンで印をつける。こんなやり方、いつどこで知ったんだっけ。役に立つ日が来るなんてな。

夕里ちゃんのことだから、ちゃっかり寝たふりをしているかもしれない。それでもいいと思った。全てを見透かされているのはいつものことだ。気付かずに眠っているのなら愛おしいし、寝たふりをしてくれているのならそれもまたこの上なく愛おしい。夕里ちゃんに甘過ぎかと自嘲しながら、印をつけた紙切れを無くさないよう、ひとまずアクセサリーボックスにしまっておく。そして全ての証拠を隠滅したのちに、彼女の髪を柔らかく撫でておやすみと告げ、明かりを消した。



後日、俺は百貨店を訪れていた。目的はもちろん、指輪……なのだが。何店舗かを見て回ったが、なぜだか全く決められない。

夕里ちゃんがそれを身に付けている様を想像するほどに、自分のエゴで夕里ちゃんを縛り付けてしまうような感覚になって、そもそも贈ることそれ自体に二の足を踏んでいるのだ。ここまで来ておいて、である。

夕里ちゃんは俺如きが縛ろうとしたって縛られてなんかくれない人だ。そんなことは十二分に理解している。だからって、それが彼女を縛りかねない行為だと知っていてことに及ぶのは筋違いなんじゃないのか。

このままでは埒が開かないので、気分転換に服でも見て回ることにした。センスに自信があるわけじゃないが、服を選ぶのは好きだ。

さすが都会のデパート。マネキンも洗練されたコーディネートで決めている。へえ、こういう服ってこうやって合わせたら良いのか。勉強になるな。とはいえ紳士服ってやっぱなんか落ち着きすぎてるっつーか、見ててもあんまり心躍らねーんだよな。そんなことを考えつつエスカレーターを降りると婦人服のフロアが広がっている。自分が着るのは当然メンズアイテムだが、見る分にはレディースの方が断然好きだ。華やかでワクワクする。

フロアを見て回っていると、ある店の奥でトルソーに着せてあるワンピースが目に留まった。あれ、夕里ちゃんにすごく似合うだろうな。

……どうしてあの夜、指輪を渡したいと思ったんだろうか。

プロポーズしようと思ったわけじゃない。ただ、夕里ちゃんの寝顔が本当に可愛くて、愛しくて。そばに居てくれることが嬉しくて、尊くて。守りたいと強く思った。君自身のことも、君がそばに居てくれることも。それを形にして、君に届けたいと思った……のかもしれない。そんなの、君にとっては何の意味もないことだって分かっているのに。ちゃんちゃら可笑しい。

そう、意味なんて無いんだ。俺にとってはそうじゃなくても、君にとっては確実に。だからもう、深く考えたって仕方がないんじゃないか。ふと君に似合うワンピースを探してしまうように、指輪だって選んでしまえばいいような気がする。そもそも受け取ってもらえるのかさえ分からないんだし。ワンピースは君を縛らないのに、指輪が君を縛る理由なんて無いだろう。

探しに行こう。君の左の薬指に光っていたら、ただ似合っていると思える指輪を。



すっかり冬も本番になって、もうアウターにはコートを選ばないと寒くて外には出られない。今日は特に冷え込むらしいと朝のテレビ番組で気象予報士が言っていた。確かに今朝はリビングの空気がいつも以上に冷たかった。こんな日が休日だと多少の優越感さえ覚える。車通勤とはいえ、冷え切った車内に暖房が効いてくるまでには時間がかかるし、寝起きの巡りの悪い手のひらで冷たいハンドルを握るのも、人知れず堪えるものである。

少し傾いた午後の日差しが差し込む室内で釣具のメンテナンスをしていると、スマホの着信音が鳴った。コールの主は夕里ちゃんだ。作業の手を一旦止めて、呼び出しに応える。

「もしもし?」

「……休日でしたか」

「うん、休み。どしたの」

「出掛けます。車を出しなさい」

「ん、分かった。すぐ行くよ」

愛しの姫君からのご用命。今日はたまたまフリーで良かった。釣具の手入れは帰ってから続きをやろう。

寝室へ行き、愛用のピアスを着けるためアクセサリーボックスに手を伸ばす。と、その隣に置いておいたものが俄かに存在感を放つ。かの有名な目の覚めるブルーのショッパー。セミオーダーが仕上がって、先週受け取ってきたものだ。名の知れたブランドだから選んだわけじゃない。これが一番似合うだろうと、君に着けてみてほしいと、ただそう思ったからこれにした。そこに特別な思いを乗せるのなんて、どこまでも俺の勝手で。渡すタイミングだって、いつでも良かった。日付だのシチュエーションだのに拘りなんて無い。君のことをいつだって愛しているから。愛を言葉にすることも、寒がる君を気遣うことも、指輪を渡すことも、全部同じなんだと思う。君が愛しくてたまらなくて、溢れてしまった気持ちが、声や行動や形になって、君との日々に表れる。だから今日も、格好つけなくたっていい。普段と同じように、君に愛を届けよう。どうせ君の前じゃ、どんなに足掻いても格好なんてつかないんだから。


夕里ちゃんの家の前に車を着けると程なくして、助手席に彼女が乗り込んできた。行き先を問えばそんなものは無いという。まあ大体予想はついてた。ただ出掛けるとだけ言って呼び出すのは本当に、ただ出掛けたいだけの時だ。

海くらいしか連れてけないってば、と冗談めかして笑ってみるけど、君は無反応。でも夕里ちゃんがノーと言わない時は、イエスと捉えても差し支えないんだってことがなんとなく分かってきた。もちろんその限りではないから、なんとも言えないけれど。とりあえず今日の無反応の答え合わせといきますか。

ギアをドライブに入れ、サイドブレーキを下ろす。西陽が眩しいな。海辺は夕陽に染まって、さぞ見栄えが良いだろう。ああ、でもいつもの堤防は東向きだったな。海を眺めるなら、夕陽に背を向けなきゃならない。はは。まあそんなのはどうだっていいか。

あの堤防が一番好きで、一番落ち着くんだ。つい足が向いてしまう。そばにある火力発電所の煙突から登る煙で風を読むのが楽しくて、海面が近くて、対岸にはパイプの張り巡らされた工場が少しだけ霞んでいて、とても小さな灯台があって、向かい側の堤防では鵜が並んで羽を乾かしていて、ボラの跳ねる音が高らかに響いて、牡蠣殻だらけの海底に群れる黒鯛たちの魚影が時折見えて。

俺のありのままを受け止めてくれるあの場所を、君も好きにはならないまでも、悪くないと思ってくれているなら嬉しい。

それにちょうど良かった。コートのポケットには君への贈り物。あの堤防でなら、きっと気負わず話せるだろう。


サイドブレーキを引いて、エンジンはかけたままに車を停める。釣り人の姿もなくて、堤防は俺たちの貸切だった。フロントガラスいっぱいに、夕陽に照らされた海が見える。このまま車内で話すか外を散歩するかは、夕里ちゃんの気分次第だ。ここ数日で一番の冷え込みらしいし、日が暮れてくるとますます寒くなるから、今日は暖房効かせて車内コースかなと思っていると夕里ちゃんは徐にドアを開け、助手席から降りる素振りだ。あ、お散歩コースなのね。了解です。

エンジンを止めてキーを抜き、俺も運転席を降りる。背中から頬を掠めて空風が吹き抜けていく。煙突の煙は真横に流れてる。強い北西風だ。風速で言えば少なくとも五メートルは吹いてるかな。寒いわけだ。こんな日にお散歩なんかしたら、君の綺麗な髪が乱れてしまうじゃないか。本当に仕方がない人だ。

ルーフ越しに夕里ちゃんのほうを見遣ると案の定、長い黒髪が風に煽られている。それを君は華奢な右手で抑えて耳に掛ける。そんな何気ない仕草さえ、とても美しいと思った。でもこの寒空の下、そんな風に耳を曝け出していたらいけないな。

後部座席から、念のため持ってきておいたマフラーを取る。車を回り込んで夕里ちゃんの隣へ。こっち向いて、って言ってもやっぱり君は無反応で、ずっと海を見つめてる。やれやれと微笑みながら、でもここは俺だって譲れない。

「ね、お願い」

半ば抱き寄せるようにして、やや強引に身体ごとこちらを向かせる。そして風が止んだ瞬間を見計らい、君の髪を手早く整えて上からふわりとマフラーを巻く。君は少し不服そうな表情をしているけれど、どうか外さないでくれ。だって見ていられないんだ。

愛しい。こんな俺のこんな想いを、なぜか受け止めてくれている君のことが。

ずっと守りたい。ずっと、そばにいてほしい……

「夕里ちゃんに、プレゼントしたいものがあるんだ」

渡そう。今。

ポケットに温めておいたものを取り出す。ブルーのリングケース。今更やたらに気恥ずかしくて、段々と鼓動が煩くなる。

「これ……」

ケースを開けて、中身を夕里ちゃんに見せる。俺が君のために選んだ指輪が、お行儀良く収まっている。小さな長方形のダイヤモンドが一粒あしらわれた、シンプルなデザイン。エメラルドカット……ってやつらしい。いわゆる、婚約指輪として作られたものだ。でも、これは……

「……これは別に、プロポーズじゃない」

そう、そんなんじゃない。ただの俺の自己満足。それをきちんと伝えなくちゃ。

「誓って欲しいとか、契約したいとか、そういうんじゃなくて……ただ、俺の……俺自身の、決意表明っていうか。……これからも、俺が絶対に……夕里ちゃんのことを守る。そばにいて、守らせてほしい、って……俺が勝手に、誓いたくなった……みたいな……」

おい。みたいなってなんだ。プロポーズじゃないにしても、大事な所だろ。ちゃんとしろよ、俺。

「……本当は、深い意味なんて無いのかもしれない……夕里ちゃんのこと、見てたら……指輪、渡したくなったんだ……」

ああ、結局こうだ。最初から格好つけるつもりなんかなかったけど、夕里ちゃんの前だと俺はびっくりするほど悉くダメだ。いつもは適当な言葉で取り繕ってなんでも軽く躱せるのに、夕里ちゃんにだけはそれが出来ない。でも夕里ちゃんになら、どんなにダメな俺でも見せて構わないと思ってしまう。

「ごめん……自分でも、何がしたいのかわかんなくて……」

「単純なことです。お前はこの身を欲しているのでしょう」

「……そう、なのかな」

「疑う余地などない。だがお前の中に存在する、相反する思念もまた真。故にもがき苦しむ。どこまでも哀れですね、お前は。どちらかを切り捨てればよいものを」

俺……夕里ちゃんが欲しいと思ってるのか。夕里ちゃんを自分のものにしたいと思ってる?でも、夕里ちゃんの自由を確かに願ってもいる。そういうことだろうか。いや、夕里ちゃんが言うならきっとそうなんだろう。夕里ちゃんは俺のことを、俺よりも遥かに良く分かっている。

「そう……だな。もし、夕里ちゃんが、俺のものになってくれるなら……嬉しくないわけ、ない……幸せに決まってる……でも、そんなのあり得ないことだって、ちゃんと分かってるよ。それで夕里ちゃんが幸せになれるとも思えねえし……夕里ちゃんを縛りつけるような真似は、したくない」

どちらか一方なら当然、夕里ちゃんの自由を選ぶ。俺が夕里ちゃんに本当に望むのはただ一つ、健やかに生きていてくれることだけだ。守りたいのも、そばにいて欲しいのも、高望みなのは百も承知なんだ。

「ええ、この身はお前の所有物になどなりません。決して」

「うん。夕里ちゃんには自由に……」

「人間は紙切れ一枚の制約に縋り付き、責を擦り付け、己や他を縛る。愚かなものね」

「……?」

「誓いなど容易いこと。愚かなお前はそれで満足なのでしょう?」

「それ……えっ……?」

待って。どういうこと?なんか、思ってた流れと違わないか?夕里ちゃん?

「さあ。傲慢なる誓いを立てるがいい」

「……!?」

夕里ちゃんが、左手を、差し出している。

つまり、ええと。

愚かな人間は紙切れ一枚の制約をまるで重い枷かのように考えているが、夕里ちゃんにとってそんなものは意味を成さなくて。

でも俺は紙切れ一枚の誓約で満たされてしまう愚か者であって。

自分は絶対に縛られない、だから誓っても良い、ってことですか?

本当に?そういうこと?形式ばかりとはいえ、俺という愚か者のために、契約ごっこに付き合ってくれるの?夕里ちゃん……


なんで……なんでそんなに最高なんだ、君は。


夕里ちゃんの左手を取る。めちゃくちゃ冷たいじゃんか。早く温めてあげなくちゃ。

愛してる。本当に愛してるよ。この気持ちは偽りじゃない。

「……俺と……結婚してください」

「ええ、喜んで」

喜んでいるわけがない。その台詞は真っ赤な嘘。鈍い俺にも分かるように、そう言ってくれたのかな。自惚れすぎかな。

俺の右手から君の左の薬指に、婚約の証をそっと受け渡す。ダメだ、泣きそう。

「……これでこの身はお前のもの。縛られてしまいましたね?」

「えっ!?いや、だって今、縛られないって……!」

「縛られるのもまた自由。お前が望む在り方でしょう?」

「……っ……ずるいって……!」

夕陽に照らされて仄かにきらめくダイヤモンドを見せつけるようにして、君は微笑む。うん、やっぱりとても良く似合っている。散々悩んで選んだ甲斐があったな。


「結婚指輪も、買わなきゃな……」

「そのようですね」

風が吹き荒ぶ冬の堤防はやっぱり過酷で、君の手が冷たすぎるからと、頼み込んで助手席に戻ってもらった。運転席に座った俺は君の右手を自分の両手で包み込んで、少しでも温もりを取り戻せるよう尽力する。

「選ぶの、付き合ってくれる……?」

「図に乗るな」

「はい、すみません」

相変わらず君は厳しい。指輪になんか興味無いよな。そりゃそうだ。ちゃんと知ってたよ、ごめんね。今日の君があんまりにも俺を甘やかしてくれるから、つい調子に乗ってしまっただけなんだ。

反省するから見捨てないでくれ。君にとっての俺は取るに足らない存在なんだとしても、俺にはもう、君しかいないから。

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1件のコメント


15hono20
2025年11月24日

🖤ドメスティック・エゴイズム解説


>タイトルについて

ドメスティックは想定した和訳としては「飼い慣らされた」の意。本来ならばdomesticatedとするべきだが、語感の良さを優先してドメスティックとした。また「家庭内の」という意味もあるためプロポーズエピソードのタイトルとして採用した。


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>俺は少し迷って、じゃあうちで温かいものを飲もうと返し、キーを回してエンジンをかける。

>冷え切った車内に暖房が効いてくるまでには時間がかかるし、寝起きの巡りの悪い手のひらで冷たいハンドルを握るのも、人知れず堪えるものである。

>ギアをドライブに入れ、サイドブレーキを下ろす。

>エンジンを止めてキーを抜き、俺も運転席を降りる。


ノクの車に関して

・キーを回す、挿してあるキーを抜く

・サイドブレーキを下ろす、上げる

・暖房が効きづらい

・ハンドルが冷たい

等の描写がある。車に乗らない方だとあまりピンと来ないかもしれないが、最近はキーを抜き差ししたり回したり、ブレーキレバーを上げ下げしたりする車というのは減ってきている。エンジンの始動と停止はスイッチ式が多く、パーキングブレーキもスイッチ式ないしフットブレーキが多い。というかそれがほとんどで、キーを回すタイプかつブレーキレバーがついている車というのは絶滅危惧種と呼んでも差し支えないレベル。最近の車にはハンドルやシートなどに暖房機能が付いているものもあるようだがそれも当然付いていない。そもそも暖房も効きづらい。まあ要するにノクはちょっとレトロな車に(おそらくあえて好き好んで)乗っているのだ。


-------


>少し散らかっているけどと断りを入れて、彼女を部屋に上げる。

>不揃いのマグカップに二人分の紅茶を淹れて小さなダイニングテーブルに向かい合えば、


ノクの部屋は少し散らかってはいるけれども、急に恋人を家に上げる展開に耐えうる程度の生活感。また、少し散らかっている部屋に恋人(というか夕里ちゃん)を上げるという行為に抵抗が無い、そしてノクの部屋に来客用の揃いのマグカップなどはなく、不揃いのマグカップをいくつか所有しているというややルーズな人物像や夕里ちゃんとの関係性なども浮かび上がったらいいなの気持ち。


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>そもそも俺たちの関係は恋人と呼べるのかどうかすら、正直よく分からない。

> ついさっき乾かしてあげた夕里ちゃんの髪からも同じ香りがしたことを思い出して、心拍数が上がる。

> 貸したTシャツの長い袖口から、白くて細い指がちょこんと覗いている。


恋人と呼べるのか分からない関係のくせにしれっと髪を乾かしてあげてるしTシャツまで貸している。恋人と呼べよ。アホか。

とはいえ夕里ちゃんがノクに対してなんの感情も抱いていない(であろう)ことをノクは理解していて、ノクが恋人という定義において重きを置いているのもきっとその点なんですよね。恋人っぽいことはするけども、恋人とはとても呼べない。ノクの誠実さが出てる部分。


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> 俺のベッドを悠々と占領して、毛布にくるまって既に眠ってしまっている。

> 愛しさが抑えきれない。俺に心を許してなきゃ、俺より先に眠ったりはしないだろう。


夕里ちゃんはノクのベッドを「勝手に使っていいもの」と考えてるだろうなと思いこんな展開にした。夕里ちゃんってあんまり自分自身に興味はなくて保身に走るとかはしないけど、かと言ってあえて自分を粗末に扱うみたいなこともしなくて例えばこの状況でも「この部屋で一番快適に眠れそうな場所はここか、じゃあここで寝よ」みたいなことはするじゃないですか。まあ少なくともうちの夕里ちゃんはする。基本的には合理性を優先するというか。

合理性を求めようとした時に夕里ちゃんはノクのベッドで寝るという行為を抵抗なく受け入れる。ノクが日々そこで眠っていてノクの匂いが染み付いているそのベッドをね。つまり夕里ちゃんは自分に好意を抱いているノクという異性のことを、穢らわしいとかそういう風には感じていないんだと思う。「ノクのベッドを勝手に占領してノクより先に安眠できる」という事実にノクへの信頼とか少しの依存とか諸々が滲み出ちゃってるんですけど、それを当事者であるノクに見せつけてしまうということは夕里子様はことの重大さにご自身で気付いていらっしゃらないんですね。

だからノクの方も、風呂入ってる間になんの断りもなく我が物顔でベッドを占領されたにも関わらず、愛しさが抑えきれなくなっちゃうわけよ。ノク自身は、夕里ちゃんにとって自分のベッドなんて穢らわしいものだろうと無意識に考えていたから。そういうシーン。ちなみにこの夜、ノクは多分ソファで寝ました。


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> かの有名な目の覚めるブルーのショッパー。


婚約指輪から連想される、ショッパーが"目の覚める"ブルーの有名ブランド=ティファニーです。一応私なりに婚約指輪をわりと色々調べて、ティファニーのエメラルドカットが一番夕里ちゃんに似合うかな、着けてみてほしいな、とガチでそう思ったのでそれにした。


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> あの堤防が一番好きで、一番落ち着くんだ。〜黒鯛たちの魚影が時折見えて。


日常的に、堤防に車を停めて海を眺めるという習慣があるノク。そもそもそういった習慣があること、そしてこの「お気に入りの堤防」への向き合い方から、ノクの人柄を感じ取って欲しいなという希望を込めて書いた一節。

ちなみにこの「お気に入りの堤防」は実在の堤防をモデルにしている。ていうか私がその堤防に車を停めて海を眺める習慣があるんです……ノクはただの私なんです……ただそれだけなんです……はい……やたら描写が詳細なのはそのせいです。書ききれなかった大好きポイントまだいっぱいあります。

あとノクが乗ってる車も私が乗ってる車です。ノクは私なので……


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> 釣り人の姿もなくて、堤防は俺たちの貸切だった。

> 煙突の煙は真横に流れてる。強い北西風だ。風速で言えば少なくとも五メートルは吹いてるかな。


・堤防を見るととりあえず釣り人の有無を確認してしまう

・風の強さを常に気にしている

・体感で大体の風速が分かる

このあたりはノクの釣り人としての習性。というより、釣り人にしか分からない小ネタ。こんなことを描写する必要は全く無いのについ書きたくなってしまう。キャラ造詣が深まって楽しいから。


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> 「ええ、この身はお前の所有物になどなりません。決して」

>「人間は紙切れ一枚の制約に縋り付き、責を擦り付け、己や他を縛る。愚かなものね」

>「誓いなど容易いこと。愚かなお前はそれで満足なのでしょう?」


これはガチガチ本編の解説になってしまうんですが読者にきちんと伝わっている自信がないので解説します。作品の中で伝えろよはそれはそう。至らぬ夢女で申し訳ない。ぐぬぬ。

夕里ちゃんは「自分は決してお前のものにはならない」「紙切れ一枚の制約に縛られるなんて人間ってマジ愚か〜」と前置きした上で、「お前は愚か者だから紙切れ一枚で誓い立てたら満足するんでしょ?なら勝手にすれば?この身はそんなものに決して縛られないので」と言っているんですね。

夕里子様の有難いお言葉によるとノクは「夕里ちゃんを自分のものにしたい」「でも夕里ちゃんには自由でいて欲しい」という矛盾した欲求を抱えている。それを受けたノクの返事は「夕里ちゃんが欲しいかと問われればそりゃ欲しい。でも夕里ちゃんが自分のものになるなんて微塵も思ってないから、どちらか片方なら当然夕里ちゃんの自由を選ぶ」という主旨のものでした。

それに対して夕里ちゃんは「じゃあ形式だけでも誓ったら?お前愚か者だし、それで満足するっしょ」て返してくださるんですよ。お前の欲求、別に両方叶うけど?ってこと。ご慈悲〜!

ノクは底無しの愚か者なので案の定大喜びよね。アホでワロタ。

つまり今後ノクは「夕里ちゃんは俺のお嫁さん!ルンルン!」となり、それを見て夕里ちゃんは「ただの肩書きに舞い上がっておもしろ〜、マジ愚か者〜」という感情で見ている、みたいな関係になると予想されます。


ちなみにこれは作中でそもそも伝わるほど書く気もなかったし本来読者が知り得るはずのない情報ですが、ノクが本当に「夕里ちゃんが欲しい」と思って指輪を渡したかどうかは微妙です。ノクは自分の気持ちが自分でもよく分からなくて、そこに自分のことを深く理解している(であろう)夕里ちゃんから「お前はこの身を欲している」とキッパリ言われたから言われるがまま「そうなんだ〜」と納得してしまっただけ。まあそりゃ、欲しいかって言われれば欲しいので、そう答えてしまうんですよね。それが指輪の動機になったかどうかは別として。夕里ちゃんのお言葉はいつもそれっぽいけど、いつも必ず正しいのかって言われるとそうじゃないんじゃないかって私は思うんですよね。

だからこの二人が結婚したのは本当にうっかりだし、それを招いたのはある意味、夕里ちゃんの自意識過剰とも言えるんじゃないですかね。ふはは。そういうのも可愛いって思いませんか。うちの夕里ちゃん、可愛いだろ。俺の嫁。

編集済み
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