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騎士の安息・序

  • 15hono20
  • 2025年12月12日
  • 読了時間: 33分

更新日:2025年12月19日

夕里ちゃんのことが、好きだ。

具体的に何がどうと言われると説明し難いんだが。いつの間にか目で追ってしまっていた。

優しくされるのは苦手だ。いっそ冷たくされた方が安心する。だからってラキオみたいなのはダメだ。あれは単純にムカつく。つーか、そもそもラキオは優しい。いい奴を隠し切れてない。不器用な優しさも、俺には眩しい。

夕里ちゃんの眼差しは常に冷たくて心地いい。俺に何の期待もしないし、けれど失望もしない。夕里ちゃんにとって俺はオモチャみたいなものだ。興味があるうちはそれなりに構ってくれて、そうじゃない時は見向きもされない。その弄ばれる感覚が、なんだか癖になっている。冷静になるとちょっと変態っぽいけどな。

俺は昔から大抵のことは何でもできて、おまけにそこそこ見栄えも良い。自分で言うなって?事実なんだから仕方ねーだろ。子供の頃から散々周りにチヤホヤされて、自分の造形の良さを嫌というほど分からされた。だから自信を持って言う。俺は顔が良い。

昔は真面目だったから、周りの人間が寄せる期待に馬鹿正直に応えようとした。でも俺だって完璧な人間ってわけじゃない。当然、期待を裏切ることもあった。裏切られた人間は失望して離れていった。でも俺は、期待に応えられなかったことが苦しかった。勝手に期待されて、勝手に失望されただけなのに、ほんと馬鹿みてーな話なんだけどな。

大人になった今でも、それはちっとも変わってなくて。期待されると、裏切ることを考えてしまって、苦しい。いつでもハイスペックな自分でいなきゃならないって、無意識に思ってる。まあでも、人ってそう簡単には変われねーんだよな。もう二十四になるけど、俺の本質はずっと昔から、ほとんど何も変わっちゃいない。

だからもう、最初からしょうもない奴を演じることにした。テキトーに軽口叩いて、胡散臭くて空気読めなくて何考えてるかわかんねーチャラ男。それが表向きの俺。

外見だって、正統派とは程遠い。スーパーロングの髪をパープルアッシュのグラデーションに染めて、男のくせにハート型のピアスをして、爪には黒のマニキュアを塗ってる。

そうそう。さっきも言ったけど、俺はあまりにも顔が良いんでな。普段は髪を引っ詰めてポニーテールにしてんだよ。ほら、下ろしてるとモテすぎて困るだろ?ハハッ!

……つーのを、他人に言い回ったりもしてるわけ。低俗な人間だと思われるためにな。本当はただ邪魔だから纏めてるだけ。別にモテるとかモテないとか、そんなんどーでも良い。まあ髪を下ろしてると普段より余計に人間が寄ってきて、鬱陶しいっつーのは事実だけど。

そこまでしてても、俺みてーなのにもとことん優しい根っからの善人ってのは居る。ジナとかな。マジで眩しくてやってらんねー。ああいうのは手に負えない。口説いたらはぐらかされてくれる分、ステラの方がよっぽどマシ。

そんな俺だが、夕里ちゃんの前じゃどんなに言葉を取り繕ったって何の役にも立たない。夕里ちゃんには全部見透かされてるって、肌感覚で分かった。でもなんだか不思議と安心した。夕里ちゃんの前では取り繕わなくて良いってことだから。それを明確に認識する前から自然と夕里ちゃんに会いに行く頻度が増えて、認識してからはあっという間に堕ちてしまった。

それからもう一つ。夕里ちゃんは儚い。少なくとも俺にはそう見える。

星舟から逃げ出してきた夕里ちゃんはいつ消されるとも分からない存在で、それを夕里ちゃん自身も大袈裟に恐怖したりはしない。自らを卑小な存在だと認識しているし、グノーシアに消されることへの抵抗も特に無いような感じだった。

そんな夕里ちゃんを見てるとやたらに胸がざわついて。守りたいって自然に思ってた。俺なんかがそんな風に考えるのは烏滸がましいって、分かってはいるけど。

俺のこと、あんな目で見てくれるのは夕里ちゃんしか居ないんだ。だから夕里ちゃんに消えてほしくない。夕里ちゃんが世界のどこで何をしてようが構わない。ただ、生きていてほしい。俺を分かってくれる人がこの世に存在するんだって、それだけで、勇気が湧いてくるから。

でも、夕里ちゃんは自分で自分のことを大切にしてくれるタイプじゃない。だからD.Q.O.を下りた後、夕里ちゃんがどこで何をするつもりなのか分からないけれど、一人にしておくのは心配だと思った。あっという間に消えてしまうんじゃないかって、不安だった。

だから、ダメ元で誘ったんだ。一緒に旅をしないかって。

俺は自然が好きだから。グノーシア汚染された時も、一人きりになって自然と触れ合いたいってずっと考えていた。人間と関わるのは、つらいからな。

でも夕里ちゃんなら、一緒に来て欲しいと思った。そばで夕里ちゃんのことを守りながら、自然を巡って旅をする。そして夕里ちゃんに色んな景色を見せてあげたかった。こういう世界で君は生きてるんだよって、君が生きてる世界はこんなに綺麗なんだって、教えてあげたかったんだ。

「いい眺めだな」

展望台から荘厳な山肌を眺める。本当に気持ちのいい景色なんだけど、隣にいる君は相変わらず無表情で何考えてるかわかんねー。

「ね、綺麗だと思わない?」

「……お前にとっては、そうなのですね」

うーん。やっぱりまだイマイチか。

下船してからいくつかの場所を巡ったけれど、夕里ちゃんの中にはそれを美しいとか素敵だと思うための基準みたいなものが欠落しているようで、綺麗な景色を見せてあげてもあまりピンと来てはいないみたいだった。

それでも、いつかその基準が形成された時、あの時見たあの景色は今思えば綺麗だったのかもと思い返せる日が来てくれたら嬉しい。そういう世界に生きていることを、少しでも尊いと思ってくれれば、いいな。

「あ……じゃあさ、写真撮ろうよ」

ふと思い立って、ポケットから携帯端末を取り出す。

「夕里ちゃんがここにちゃんと生きてるって証拠、残しとこう」

この美しい世界に、君は今、確かに生きている。その証拠を残しておこう。

インカメラを起動して、山の景色をバックに自分と夕里ちゃんの姿を画角に収める。ぽかんとする君の表情もいつも通り可愛らしくて、ふっと顔が綻んだのと同時に、シャッターを切った。



-------



前回の旅行地を発ってから、星間航行と陸地での移動を経て、俺たちはとある海辺の街を訪れていた。滞在二日目。前日宿の主人が、宿帳に記入する夕里ちゃんの隣で手持ち無沙汰にしていた俺に、気を利かせて街の見どころを色々と教えてくれた。晴れていれば浜辺に夕陽が綺麗に見えるのが街の自慢らしいのだが、昨日はあいにくの雨で夕陽を見ることは叶わなかった。今日も雨雲の余韻は尾を引いていて、朝から小雨が降ったり止んだり。

水辺があったら釣竿を出すっつーのが俺の習性だが、この天気じゃ釣りをするのもちょっとテンション上がんねーな。雨の中の釣りは体力奪われるし、旅の途中に無理してまでやるもんでもない。

ま、曇天には曇天の楽しみ方ってのがある。宿に引きこもってるのもつまんねーし、小雨の中を散歩するってのも、ひとつの"自然との触れ合い方"だ。

今朝身に纏ったのは、ハイネックのノースリーブインナーに五分袖のノーカラーショートジャケット。フィッシングブーツにボトムスの裾をインする、いつものスタイル。この気温ならこのまま外にも出られるだろう。

夕里ちゃんを誘って、宿で借りた傘を片手に街へ繰り出す。今のところは降ってないみたいだ。止んでるうちに戻ってこられれば良いんだが、そう上手くはいかねーかな。

夕里ちゃんの歩幅に合わせて、薄曇りの街をのんびりと歩く。あいにくの天気とはいえ、この街は曇り空がよく似合う。石造りの建物はどれも色が抜けたみたいにくすんでいて、軒先からぽたぽたと落ちる雫の音まで一粒ずつ聴こえてきそうなほどの静けさがあった。人通りもまばらで、観光客向けの店なんかほとんどない。あるのは小さな露店と、古びた看板を掲げた食堂くらいのものだ。

俺はこういう場所がとても好きだ。賑やかな場所で騒がしく振る舞うことだっていくらでも出来るけど、それは多分、本当の俺じゃない。

静かで、アナログで、薄暗くても温かくて、湿っていても優しくて。そういうのが好きなんだ。普段はチャラチャラした人間を装っているけど、本当は。

そんなの、誰にだって見せたことがなかった。それを見せることは、自分の弱さを晒すことだと思っていたから。それを見せて、なんだ結構素朴でいい奴じゃん、なんて思われるのが嫌だった。無害ないい奴だと思われることほどしんどいことはない。

でも夕里ちゃんになら、そんな俺を包み隠さず見せられる。夕里ちゃんとなら、大好きな景色を、隣で一緒に眺めていられる。そんな人、この宇宙のどこを探したって他には居ない。守りたいって、生きていて欲しいって、どこまでも本気で、心の底からそう思っている。

「わ……綺麗だな」

一つの露店の前でふと足を止める。布をかけただけの簡素な屋台なのに、並べられているのはやたらと綺麗なガラス工芸品だった。太陽が出ていないせいで光は鈍いが、ぼんやりとした曇り空の下でも、多面にカットされたガラスがかすかに色を反射して揺れている。

「いらっしゃい。カップルさんかい?」

「えっ!?」

「違います」

「あ、えっと……はい、あの……違います……」

にこにこしながら話しかけてきた店主の発言に思わず狼狽える。夕里ちゃんが冷静に否定してくれなかったら、もっと狼狽えていただろう。危なかった。そう、俺たちはカップルなんかじゃない。ただの……いや……カップルじゃないなら、何なんだろうか。

「違うのかい?じゃあご夫婦?」

「いや、ちがっ!と、友達!友達です!」

「友達?はは、カップルに見えたんだけどなあ」

友達という表現も全くもって正確でないのは確実なのだが、この場を切り抜けるためにひとまず適当に誤魔化しておくことにした。夕里ちゃんはどう思っているのだろうか。考えるだけで身震いがする。

「綺麗だろう。私が手作業で作ってるんだ」

「へえ……すごいすね……」

「晴れた日にはもっと綺麗に見えるよ。窓辺なんかに飾るといい。でも、曇りの日にだけ見える微妙な色の変化も、面白くて私は好きだけどね」

確かに十分綺麗だけれど、これも夕陽と同じく、晴れたらもっと綺麗なやつか。早く雨雲が去ってくれることを願うばかりだ。

店主に別れを告げて街の散策に戻った俺たちは、ちょっと趣向を変えて、石畳の細い裏路地に入ってみる。表通りから一本入るとそこにある建物はほとんどが住宅のようで、皿洗いの音が漏れ聞こえてきたり、昼食の匂いが漂っていたり、地元民の生活の色が滲んでいる。歩いているうちに小雨が降り出したので傘を差して、道端で雨宿りをしていた老人と挨拶を交わしたりなんかしつつ細道を奥へ奥へと進むと、住宅の並びの中にカフェと書かれた小さな看板が下がっているのを見つけた。

外観は他の住宅と同じく素朴な石造りだが、やや大きめに設計された窓からは店内の様子が窺える。こんな立地の上に天気の影響もあってか、他に客は見当たらない。けれど、カウンターの奥には焙煎機らしきものがちらりと見える。店内で豆を焙煎しているのだろうか。だとしたらコーヒーの味には期待が持てるだろう。

「ちょっと休憩しよっか」

提案すると夕里ちゃんは黙って傘を閉じる。石畳の街にハイヒールの女の子を連れ回して、本当に悪いなって思ってるよ。ごめんね。付き合ってくれてありがとう、夕里ちゃん。

軒先の傘立てに傘を置いてドアを開ける。ドアベルが鳴ると程なくして、カウンターの奥から若い女性が急ぎ足で姿を現した。

「いらっしゃいませ……!二名様ですか?」

「あ、はい。……お忙しかったです?」

「いえ、大丈夫ですよ!あちらのお席、どうぞ」

女性はそう言って窓辺のソファー席を案内してくれた。古びた木製のテーブルには手書きのメニュー表が置いてある。予想通り、自家焙煎珈琲の文字。当たりだ。

コーヒーは何種類かのシングルの他に独自のブレンドも選べるようだ。知らない星の店だけあって、聞いたことのない産地の豆を取り扱っている。この星でも有数の、コーヒーの名産地なのだろう。旅先でこういう店に出会えるとやはり嬉しい。テンションが上がる。

コーヒー以外のメニューは、紅茶やその他数種類の飲み物、手作りのスイーツ、軽食などだ。どれもこれもセンスが良い。一体どうして客が入ってないんだ。これだから田舎の裏路地は好きだ。

「夕里ちゃん、お腹減ってる?」

「特には」

「了解」

食に興味のない夕里ちゃんの分のオーダーは、いつも俺が決めている。夕里ちゃんは好き嫌いとか特に無くて、出されたものは選り好みせず、何でも食うし飲んでくれる。かと言ってあんまり癖の強いものばっかり挑戦させるのも違うと思うから、なるべくオーソドックスなメニューを選ぶようにはしてるけど。

先ほどの女性店員が、お冷のグラスとおしぼりを持って現れる。

「ご注文はお決まりですか?」

「シングルで、この、ガリュジャ……ていうのをひとつ。それと、ノンカフェインのホットティー。ストレートで良いです。あと……ミックスサンドをひとつ、お願いします」

「かしこまりました。お待ちください」

店員は笑顔を見せて下がると、カウンターの中に入って作業を始めた。

控えめな照明の灯る店内。窓辺のこの席には、外の小雨の気配もさらに趣を添えている。

「静かで良いな、ここ」

「……そうね」

珍しい。夕里ちゃんが返事をしてくれた。しかも、明確な同意。夕里ちゃんもこの場所を、静かで良いところだと思っている。たったそれだけのことがとても嬉しくて、愛おしくて、自然に口元が緩んでしまう。

「……ん?」

夕里ちゃんのまつげに見惚れていると、ふと左の足元を何かが掠めた、気がした。視線を落とすが何も居ないし何も無い。テーブルの下を覗き込もうとして、向かいに座る夕里ちゃんはワンピースを着ていることを思い出し、ハッとして思い止まる。一人で勝手にドギマギしていると、夕里ちゃんの右側、つまり夕里ちゃんからすれば左側に、黒くて毛足の長い物体がひょこりと上がり込んできた。ピンと立ったモフモフの尻尾が、テーブル越しによく目立っていて──

「……猫?」

こちらを一瞥した眼光は、まごうことなき猫のそれだった。ちょっと目付きは悪め。どうやら俺には全く興味がないようで、にゃあ、とか言いながら、夕里ちゃんの腕に額を擦り付けている。だがしかし、夕里ちゃんの方こそ猫に全く興味がない。歪な三角関係だ。

「お待たせしました……あら?」

一方的に懐かれている夕里ちゃんが可愛くてまた見惚れていたら、店員が注文の品を届けにやってきた。飲み物とサンドイッチを配膳しながら、店員は猫の様子を見て微笑みかける。

「お客様にこんなに甘えるなんて珍しいんですよ、この子。普段はもっと気難しいんです」

「え!マジすか?」

「ええ。それ、撫でて欲しいっていう合図です」

「へぇ〜、そうなんすね!カワイイ〜」

「たぶん、撫でてあげるまで離れませんよ。ふふっ」

ごゆっくりどうぞ、と続けて店員は戻って行った。

俺はテーブルに運ばれた食事を手早く写真に撮る。これは夕里ちゃんと旅をした証拠だ。夕里ちゃん自身を撮らないのは、本人があまり撮られることが好きじゃなさそうだから。まあでもこれは俺の憶測で、俺自身が気恥ずかしいからっていうのがもっと大きな理由。二人分の食事を写真に残しておく程度が、双方にとって一番ちょうどいい距離感かなと思って、なんとなくいつもそうしてる。

「猫、撫でないの?」

夕里ちゃんのホットティーは傍に置かれた砂時計が落ち切る頃が飲み頃らしいが、見たところまだ少しかかりそうだ。猫はめげずに頭や身体を擦りつけ続けている。

「撫でてあげればいいのに。ははっ……!」

頑なに撫でない姿勢を貫く夕里ちゃんのこともなんだか滑稽に見えてきて、サンドイッチに手を伸ばしながら思わず笑ってしまう。それを受けてか、夕里ちゃんは甘え続ける猫をじっと見つめた後、その背中をそっとひと撫でした。猫はますます喜んでいる様子で、より甘い声を上げながら夕里ちゃんの手に纏わりつく。夕里ちゃんは手を差し出しているだけで、猫の方が自分で心地の良い箇所を押し付けているような感じだ。ここを撫でろと言わんばかりの甘えっぷりと夕里ちゃんの無表情がまた可笑しくて、サンドイッチを咀嚼しながらますます笑いが込み上げてくる。そうこうしているうちに砂時計が落ち切っていたので、俺は手に持っていたサンドイッチの残りを口に放り込み、一旦手を拭いた後、ポットから夕里ちゃんのティーカップへ紅茶を注ぐ。出過ぎた紅茶は美味くない。夕里ちゃんには美味しいものを飲んでもらわなきゃな。

温かい紅茶を差し出すと、夕里ちゃんは左手で猫を撫でながら(というより猫に纏わりつかれながら)、右手で静かに紅茶を飲んでくれた。

夕里ちゃんのこんなに可愛い姿、未だかつて見た事がない。生きてて良かった、などとすら思ってしまっている。どんな味か確かめたくて注文した知らない産地のコーヒー豆も、今は味や香りに全く集中出来そうにない。夕里ちゃんのことはいつだって愛しいし愛しているけど、今このとき、この瞬間、俺はこんなにも君に夢中だ。

生きていてくれてありがとう、夕里ちゃん。好きだよ。愛してる。俺が守るよ。守らせて欲しい。俺が死ぬまで、ずっと。

(……なんて、口が裂けても……言えないけど)

うん……そこまでは言えない。

守らせて欲しいと言ったことは、ある。でも、死ぬまで、と付けたことはない。愛してると伝えたこともない。

だってそんなの申し訳ないだろ。俺なんかが、夕里ちゃんのこと愛してるなんて。俺なんかが、夕里ちゃんに一生付き纏うなんて。

この幸せは今だけなんだ。夕里ちゃんはいつか必ず、俺の前から居なくなる。消えるにしろ、去るにしろ、きっと、きっと。

でも、それが今日じゃなければいい、今日じゃなければいいって、ずっと思い続けてる自分も居て。ちゃんと覚悟してるつもりなのに、考えれば考えるほど、失うことが怖くなる。

だから、愛してるなんて言えないんだ。もしそれを言ったとして、万が一にも赦されてしまったら。その後で夕里ちゃんを失ったら、俺は──絶対に、立ち直れないだろうから。


カフェで穏やかな時間を過ごした後、店主だったらしい女性と猫に別れを告げて、疲れた脚を休めるため、一旦宿に戻った。途中、出会った地元の漁師が、宿近くの食堂で美味い海鮮料理を安く出していると教えてくれたので、宿で日暮れを待った後、その店で夕食をとった。

地元の海産物がふんだんに使われた料理はどれも、素材を引き立たせるシンプルな味付けで俺好みだった。素材を活かす料理ってのは、新鮮な食材と丁寧な下処理があって初めて成り立つ。そういう味が根付いているような土地だから、この街はなんだか居心地が良いのだろう。

食堂を出ると空には星が見えていた。やっと雨雲が去ったようだ。夕陽もガラス細工も、明日にはちゃんと綺麗に見えるだろうか。楽しみだ。

遠くから波の音が聞こえる。少し歩けば、すぐに砂浜だ。

「……ちょっとだけ、散歩していい?」

「……好きになさい」

その声色はちょっと呆れ気味にも聞こえたけど、それって逆に、呆れてんのに付き合ってくれるってことかな。自惚れちゃうな。ありがとう、夕里ちゃん。でも俺、またハイヒールの女の子を、今度は砂浜に連れて行こうとしてる。本当にごめんね。あとで靴に付いた砂、めちゃくちゃ払ってあげるからさ。

しばらく歩いて砂浜に差し掛かると、やっぱりヒールが砂に埋まってしまって、夕里ちゃんは少し歩きづらそうだ。見兼ねて手を差し伸べると、さすがの夕里ちゃんも強がらずに手を取ってくれた。

「ごめん、歩きづらいね」

「ええ、とても」

とても、と来たか。無表情で淡々と歩を進めながら、ただし自分は今とても不快である、と。マジかー。どうしよ。

やや落胆していると、あることに気がついた。まだ少し遠くて鮮明に見えないのだが、波打ち際が、ぼんやりと光っている気がする。もっと正確に表現するならば、打ち寄せてきた波が、その輪郭を光の線で残したまま、海に帰っていく。そんな感じだ。

「なんか、海が光ってないか……?」

「……さあ」

もっと近くで見てみたい。夕里ちゃんにも見せてあげたい。けれど、夕里ちゃんにこれ以上砂浜を歩かせるのは申し訳ない。どうしよう。どうしたら。

「ごめん。やっぱ、もうちょい付き合って」

好奇心に負けた俺は夕里ちゃんの両腕を取って俺の両肩に乗せ、間髪入れず夕里ちゃんを横抱きにした。バランスを崩した夕里ちゃんは俺の首に縋るように抱きついてくる。有無を言わさず力で押し勝てるのは、男の特権だ。悪いね、夕里ちゃん。

少し不服そうな顔で夕里ちゃんはこちらを睨んでくるけど、抱えられてもう抵抗は出来ず、黙って俺の首に手を回している。用が済んだらすぐ下ろしてあげるから。ちょっとだけ我慢してね。

機動力が上がったのですたすたと波打ち際へ近寄る。やはり水際が、青や緑色にうっすらと光っている。波が寄せるたび、光のグラデーションが折り重なっては消えていく。

「すげ……」

俺は更に好奇心をそそられて、寄せてくる波に靴の爪先を突っ込んだ。常にフィッシングブーツを履いているのは旅先でいつでもどこでも釣りをするためだが、自然を巡るというコンセプトの旅ではそれ以外の場面でも、存外役に立つものだ。

海水を爪先でぱちゃぱちゃと遊ぶと、光を帯びた水飛沫が舞い踊って、消えた。なるほど、プランクトンだな。夜釣りの最中に、刺激を受けた海水が光る様子を何度か見たことがある。でもそれを波打ち際で、こんなに美しい光景として目撃したのは初めてだった。

「近くで見る?」

そう問いかけて、波の届かないギリギリの地点で夕里ちゃんを下ろす。夕里ちゃんはしゃがみ込んで、光る波を不思議そうに眺めている。雨上がりのゆるやかな、あたたかな海風が夕里ちゃんの黒髪を揺らす。

「……綺麗だな」

何に対して呟いたのかは、曖昧な台詞。夕里ちゃんは答えを返さない。それは、もしかしたら、綺麗なのかもしれない、ってことなのかな。

しばらく海を眺めた後、夕里ちゃんが立ち上がってこちらを見たので帰りの合図だと察する。側に立って少し屈むと、夕里ちゃんの方から自然に腕を回してくるので、今度はきちんと合意の上で、丁寧に姫抱きさせていただく。はー、やべー。今の、めちゃくちゃ可愛かったな。もう俺に抱っこされる気満々じゃん。幸せすぎる。連れてきてよかった。


宿に戻って、夕里ちゃんには先にシャワーを浴びてもらった。温暖な気候とはいえ、夜の海風で少し身体が冷えてしまっていたのだろう。帰りに抱き上げた時、触れてしまった夕里ちゃんの肌が冷たくて心配だった。

自分自身に無頓着な夕里ちゃんだから、暑いとか寒いとか、痛いとか苦しいとか、そういうことは、なかなか俺に伝えてはくれない。我慢してるというより、そもそも意に介していないんだろう。

俺としては、もうちょっと自分を大事にしてくれると嬉しいんだけど。でも、俺が昔からどうしても、他人の期待を裏切るのが怖いように、夕里ちゃんだって変われと言われてすぐに変われるわけじゃないのは当然だ。人の価値観は、そう簡単には揺らがない。

だからせめて俺が精一杯、夕里ちゃんのことを大切にしたい。自分を大切にするのが難しい、夕里ちゃんの代わりに。まあでもあんまり過保護にしすぎるのも鬱陶しいし、色々天秤にはかけてるけどな。多少身体が冷えても綺麗な景色を見せてあげられるなら、それも夕里ちゃんを大切にすることにはなると思うし。状況は色々で、いつも"精一杯"なんだよ。

白いワンピースの寝間着に着替えた夕里ちゃんが、シャワーを終えて出てくる。カチューシャをしない姿も、もうすっかり見慣れた。どんな服装でも、どんな髪型でも、君は本当に可愛くて、限りなく愛おしい。

夕里ちゃんのシャワーの間に、砂まみれのハイヒールも綺麗になった。代わりに俺の手が爪の中まで砂まみれになったので、俺もシャワーを浴びるとしよう。


長い髪をなんとか乾かし切って洗面所を出ると、夕里ちゃんは既にベッドに横になっていた。ついでに言うと部屋の灯りも消されている。暗すぎる。さすが夕里ちゃん、気ままなお姫様である。可愛いな、本当に。

薄いカーテンを透かしてかすかに差し込む外の明かりを頼りに、俺も自分の寝床であるシュラフにもぐり込む。旅費を節約するために、一部屋に二人で安く泊まらせてもらえる宿を選んでいる。俺の寝床はいつも床。一台しか無いベッドは当然、夕里ちゃんのものだ。

静けさの中で、今日の出来事を思い返す。鈍く光るガラス細工。裏路地のカフェの猫。夜の海とお姫様抱っこ。

また、忘れたくない思い出が増えてしまった。

いつもそうなんだ。俺はいつだって、失うことばかり思っている。今だけを見て生きることができたら、どんなに幸せなんだろうか。

本当に幸せなんだ、今は。夕里ちゃんが、隣に居てくれるから。俺の隣で、生きていてくれるから。

ねえ……夕里ちゃん。

そこにいるよね。ちゃんと、生きててくれてるよね。

ねえ夕里ちゃん、夕里ちゃん。

「……夕里ちゃん……」

ぽつりと溢れた自分の声に、心臓が鳴る。なぜだろう、つい呼んでしまった。

けれど返事はない。なくて良かったような、あって欲しいような、ないまぜの感情が渦巻く。

「寝ちゃった……?」

「いいえ」

堪えきれずに確認してしまった。ということは、名前を呼んだのも聞かれていた。もう、なんというか。この期に及んで、言い訳なんかはきかないだろう。

「……夕里ちゃんは、今でも……死んだり、消えたりするのは、怖くない?」

「ええ」

「そっ、か」

知られてしまったのならこの際と、抱え込んだものをじわじわと吐き出す。

「お前は恐れているのですね。この身を見失うことを」

「……うん」

案の定バレている。俺の考えていることなんて、夕里ちゃんには全部お見通しだ。

「ならば身を挺して、この身を守るがいい。目覚めるまで、片時も離れずに」

「…………え」

今、なんて?

身体を起こして夕里ちゃんを見ると、横になったままこちらを向いた夕里ちゃんは自分の隣を手のひらでトントン、と叩いて示す。

「どうするのです?」

「え、っ!?いや、その……!」

「その気が無いのなら、仕方ありませんね」

「んああ!ちがっ!守ります!守らせてくださいっ!」

俺は慌ててシュラフを抜け出し、おずおずと夕里ちゃんのベッドへ上がる。なんだかすごい展開になってしまった。別にそんなつもりじゃなかったのに。

「……なんで、そんなこと言うの」

「お前が言い出したことでしょうに」

「ええ……?そう、なんのかなあ……?」

「違いますか?」

「いえ、仰るとおりです」

夕里ちゃんがそう言うなら、俺は黒いカラスも白だと言える。もう、そういう風に調教されてしまった。夕里ちゃんの言葉を全肯定するだけの、堕落した幸福な奴隷だ。だってこんなに可憐なプリンセスのこんなに可愛らしいわがままを、聞かずにいられるわけがない。

夕里ちゃんが開けてくれたスペースに有り難く収まる。男女が二人で寝そべるには、ベッドの幅がちょっと足りてないな。

薄明かりに照らされた夕里ちゃんの白い頬が、暗闇の中で浮かび上がる。それはあまりに美しく、何かに攫われてしまうんじゃないかと思って、切なくなって、ふわりと抱きしめた。

「……何の真似ですか」

「ごめん……」


「……守りたい、夕里ちゃんのこと……消えないでほしい……」


「眠ってる間も、こうしてていい……?」

「……好きになさい」


「……夕里ちゃん」

だめだ。こんなふうに抱きしめていたら、気持ちが溢れてしまう。

「夕里ちゃんと居ると……安心するんだ……」

嘘だ。安心する、なんてもんじゃない。そんなんじゃなくて、本当はこんなに胸が高鳴って、こんなに苦しくて、幸せで。

「いつかは居なくなっちゃうって、分かってるけど……」

分かってる。でもこの気持ちは本物なんだ。君が何より大切で、守りたくて。君を思うととめどなく溢れてくる、この気持ちは……

「……ごめん……」

言えない。そんなの。

君を失うのが、怖いから。



「……ふ。お前はやはり臆病ですね」



夕里ちゃんの言葉が、俺の心臓に、とどめを刺した。


──ああ、やっぱり夕里ちゃんには敵わない。

どんなに取り繕ったって、夕里ちゃんの前で俺は無力なんだ。隠し事なんか出来っこない。俺のこの重すぎる感情を、どんなに軽く振る舞ったって、夕里ちゃんには見透かされてしまうんだ。

「っ……ごめんね、夕里ちゃん……」

ごめん、夕里ちゃん。こんな俺で、本当にごめん。こんな俺が、本当に、ごめんね。

「愛してるんだ……」

「知っています」

「うん……ありがとう……」

やっぱり、知っていてくれたんだね。きっと、ずっと、最初から。俺が、君を愛していると、初めて思うよりも前から。

だって俺も知らなかったんだ。こんなにも君が愛おしくて、こんなにも失いたくないと思ってるなんて。

「……本当は……どこにも行かないでほしい……」

「それはどうかしらね」

「うん……それで、いい……」

それでいいよ。それで十分なんだ。夕里ちゃん。贅沢は言わないよ。生きていて欲しい。君が健やかに生きていてくれれば。ただそれだけで、俺は──





朝陽が眩しくて俺は薄目を開けた。安宿のカーテンは布地が頼りなくて、光と熱がその隙間を容赦なくすり抜ける。まあでも登る陽が朝を告げてくれるこの感覚が俺は好きだし、普段は野宿もざらなのだから、屋根もあって壁もあればこんなに贅沢なことはない。男の一人旅なんてそんなものだろう。

寝返りを打とうとすればベッドから転げ落ちそうになって、自分がベッドのギリギリ端で眠っていたことを知る。そうか、昨夜は──昨夜は……なんだったっけ。どうしてこんなに崖っぷちで眠っていたのだろう。想像だにしない寝相の悪さだったのだろうか。

そもそもなぜ昨夜は宿に泊まったのだろう。少し歩けば浜がある。そこにテントでも張って、波の音を聴きながら眠ればさぞ気持ち良かっただろうに。

ていうか、なんでシュラフが出してあるんだ?宿でわざわざシュラフを広げる必要なんか無いだろう。手入れでもしていたんだっけ。

なんだろう、この噛み合わせの悪さは。

だって俺、この宿に連泊してる……よな?なんでそんな金のかかることしてんだ?

この違和感。ただの気まぐれと言ってしまえばそれまでなのだが、その気まぐれを起こした記憶は欠片も脳裏に残っていない。今までの旅路を思い出そうとしても、断片的にしか思い出すことができない。

ベッドサイドで充電していた携帯端末を手に取って、フォトアルバムを開く。旅の途中で撮った写真を見れば、断片的な記憶を繋ぐ手がかりがあるかもしれないと考えたのだ。アルバムにずらりと並ぶのは自然の景色と、道中様々な星で口にした食事の写真だ。その中に一枚だけ、異彩を放っているものがあった。

不自然に余白の空いた、自撮り。一応背景に山が写っているが、それにしても俺の横にスペースが空きすぎている。そもそも俺は普段、自撮りなんてする性分じゃない。なんなんだ、これ。なんでこんな写真、撮ったんだ?この場所に行ったことは覚えてる。でもこの写真を撮ったことは全く思い出せない。正確には、写真を撮った時の情景は思い出せるのだが、そこに至った経緯や動機などをどうしても思い出すことができない。ただの一回、この時にだけ、こんな異常な行動をとっておいて?そんなのおかしいだろ。

アルバムをよく見てみると、あることに気がついた。二人分の食事が写っている写真があるのだ。というか、ほぼ全てが二人分だ。一見、一人前に見える食事も、飲み物や取り皿が必ず二つ写っている。外食では見ず知らずの他人と相席することも度々あるが、野営の自炊ですら、食事が明らかに二人分に取り分けてある。他の旅人と食事を分け合った記憶などない。俺の旅はずっと一人のはずだ。これは一体どういうことだ?

冷静になってみれば、昨夜の食事の記憶すら曖昧だ。それも写真に残してあるが、やはり二人で食事をしたような様子が写っている。宿近くの店が安くて美味いと地元民に聞いたのでそこに行って、二人がけのテーブル席に案内されて……相席、だったのか?いや、一人だった……一人だったという記憶しかない。でも、写真には二人分──

……誰か、居たのか?

セツが次元の扉を潜った時、乗員たちはセツのことをまるで覚えていなかった。セツの存在がこの宇宙からまるごと、無かったことになったからだ。

もし昨夜のうちに、昨夜俺と食事を共にした誰かの存在が、この宇宙から消えたんだとしたら。

謎の自撮りや宿への連泊も、今朝初めて疑問を抱いたということは逆に、昨日までは疑問にも思っていなかったということだ。それはおそらく、それに納得するだけの理由がきちんとあったからで。その理由こそ、『昨夜消えたかもしれない誰か』なんじゃないのか?そう考えればさまざまな辻褄が合う……気もする。まあ、多少強引な仮説ではあるが。人間の存在が宇宙から消えるなんて事象に、人生でそう何度も出くわすとは考え難いし。だいたいこんななんでもない街でどうやって人間が消えるんだ。意味わかんねーだろ。

とはいえなんにせよ、この不可解な状況を紐解きたい。なにぶん、謎を謎のままにはしておけないたちだ。

そのために何をするべきか。とりあえず、直近の行動をトレースするのが無難か。昨日行った場所をもう一度、順番に辿ってみるとするか。


着替えて外に出ると、昨日までとは打って変わって、清々しいほどの晴天だった。この星に熱と光をもたらしている恒星が、青い空に燦々と輝いている。なんて気持ちのいい朝だろう。さっそくあのガラス細工を見に行こう。

屋台の前に差し掛かると、店主がこちらに気付いて声をかけてきた。

「いらっしゃい。今日はよく晴れたね」

「へへ、早速来ちゃいました」

風が吹くたび、ふらりと揺れるガラスたちが虹色の光をあちこちに散りばめる。昨日のそれとはまるで別物で、俺は目を見張った。

「やっぱり、晴れた日が一番、綺麗に見えるかな」

「そう……ですね。昨日も十分、綺麗だと思ったけど……」

一瞬ごとに、きらめきと影が立ち位置を入れ替わる。なんだかミュージカルでも観てるような気分だ。こういう、二度と同じ形にならなくて、常に変化し続けるものってのは、永遠に眺めていたくなる。海を眺めるのが好きなのも、そういう理由だ。

「あの……写真、撮ってもいいですか」

「構わないよ。自由に撮っておくれ」

ポケットから携帯端末を取り出して、たった一枚だけ、写真を撮る。

「すみません……写真に撮るなんて、なんか……申し訳ない気がするんすけど」

「はは。なんだい、それ」

「だってこれ絶対、実物が一番綺麗だし」

この景色を写真に収めたいわけじゃなくて。この体験をしたことを、覚えておきたい。あとでちゃんと思い出せるように、残しておきたい。

そうだ。思い出さなくちゃ。昨日、ここに来た時は。昨日も俺は一人で。一人……だったんだよな。

「変なこと、聞くんですけど……昨日、俺って一人でしたか?」

「え?そうじゃなかったかい?」

「……ですよ、ね」

店主の記憶も、俺の記憶と一致している。ここへ来た時、俺は一人だったんだ。それは間違いない。

でも、だとすると、食事の写真に説明がつかない。昨日行ったカフェでの写真にも、二人分の飲み物が写っていた。カフェの店員に話を聞こう。


まだ少し早い時間なので営業しているか分からなかったが、カフェに着くとどうやら店は開いているようだった。コーヒー豆を焙煎するいい香りが、外まで漂っている。

ドアベルを鳴らして店内を覗くと、今日は他に客が二組。空いているテーブルは三つだった。昨日のソファー席はまだ残っている。

「いらっしゃいませ!今日もお越しいただいたんですね」

「いい店だったんで。昨日の席、座っていいですか?」

「ええ、どうぞ。お冷とおしぼり、お持ちしますね」

許可を取って、昨日と同じ席に落ち着く。右手に大きな窓。昨日は雨の音を冷たく響かせていたこの窓も、今日は朝の光をいっぱいに取り込んで、なんだか気持ちよさそうだ。

席に着くとすぐ、テーブルの上にあの黒猫が上がり込んできた。お前、昨日は店主のお姉さんに甘えまくってたな。目付き悪いくせに、可愛いやつめ。

丸くなった猫を眺めていると、店主さんがお冷とおしぼりを手にやって来る。

「あら。今日はお兄さんに甘えないの?」

「……え?」

「昨日はお兄さんにすっごく甘えてたのに。ふふ、今日は気分じゃないのかもしれませんね」

「ま、待って。昨日は……昨日、俺は多分、甘えられてないです、えっと……」

「え?」

なんだこれ。おかしい。俺は昨日、猫にガン無視を決められていたはずだ。確かにそのはずだ。なのにお姉さんの中では、猫は俺に甘えていたことになっている。

「俺、昨日はこの子にめちゃくちゃ無視されて……昨日、この子はお姉さんに甘えていて……」

「え……そうでしたっけ……?だって私、お客様に甘えるのは珍しいんですって、お兄さんに話しませんでしたっけ……あの時は確か、お兄さんしか居ませんでしたし……」

そう、だったかもしれない。確かに、お姉さんの声で、その台詞を聞いたような覚えもある。確かにあの時、店内に客は俺一人だった。でも猫は俺に甘えてなんかいない。じゃあなんでそんな台詞を聞いた覚えがあるんだ。

猫、お前は一体誰に、いや何に甘えていたんだ。

テーブルの上で丸まった猫が、鋭い眼光でこちらを見つめる。何か知っているのなら教えてくれ。どんな些細なことでもいい。絶対に、何かがおかしいんだ。

「あ、あの!この写真、見て欲しいんですけど……」

いてもたってもいられず、昨日の写真を店主さんに見せる。

「俺、一人だったはずなのに、飲み物が二つあるんです。その……こんなこと言うのは変だって、分かってるんですけど。俺って、本当に一人でしたか……?」

「……確かに……不思議ですね。お兄さんは一人だったはずですけど……ちょっと、待ってください。昨日の伝票、確認してきます」

ガラス工芸店の店主とは、記憶の齟齬は無かった。けれどここでは、話が食い違う。

これはまだ憶測の域を出ないが、おそらく──俺の記憶は、既にもう信頼出来ない。俺の記憶はもとより、誰の記憶ももう、信憑性がないのだろうと思う。これは、多分……何らかの外力によって、記憶が改竄されている。そう考えるより他にない。

信じられるのは、残されている事実だけだ。

「お待たせしました。伝票を見てみたんですけど、昨日のご注文……コーヒー、ホットティー、ミックスサンドの三点。これ、一度にご注文されてますね……おかわりで飲み物を追加したような感じではなくて……」

「……なるほど」

「ごめんなさい。ご注文を受けた時の記憶が、ちょっと曖昧で……普通、こんな風に注文されたら、私も不思議に思うはずなんですけど……どうして昨日は何とも思わなかったんでしょう……」

「ありがとうございます。すごく助かりました。コーヒー、いただいてもいいですか?お姉さんのおすすめを一杯」

「あ……はいっ。ありがとうございます」


宿の部屋で、俺は思考を巡らせていた。

俺の記憶には穴がある。何が原因かは分からないが、おそらく、記憶が改竄されている。

記憶が塗り替えられているのは、どうやら俺一人だけじゃない。滞在期間中に出会った街の人々を探せる限り探して、話を聞いた。すると俺の記憶と合致する証言や食い違う証言を、皆様々に口にした。それらの証言と、残された違和感──宿への連泊、ベッドがあるのに広げられたシュラフ、謎の自撮り、食事の写真、カフェの注文、猫の態度──そこから導き出される仮説。それはやはり、『今まで旅路を共にしてきた誰か』の存在だ。

二人居た、そして片方が消された。そう仮定すれば辻褄が合うことばかりなのだ。偶然にも俺はセツの消滅に立ち会ったことがあるから、人一人が宇宙から消えた時に他の人間がどういう挙動をするのかを実際に目にしたこともある。消滅した人間に関する記憶がすっぽりと抜け落ちて、その穴は曖昧にぼやけている、または個人個人の脳内で勝手に補完されているような状態だ。カフェの店主と話が食い違ったのは、その補完が俺と彼女とで別のストーリーだったから。

しかし、消滅した人間とあまりに距離が近かったせいで、俺はその痕跡に気付くことが出来た。

いや、たまたまとも言えるか。というのはあの自撮りだ。俺は滅多に自撮りなんかしない。けれどなぜかフォルダに一枚だけ残されていた、謎の自撮り。

動機は不明だが、おそらく俺の隣に元々、その人物が写っていたのだろう。だが人間の消滅と同時に、写真に写ったという過去の事実も消え去った。多分そんなようなロジックなんだと思う。

その人物がずっと存在してきたという事実の先に消滅という事実が現れたわけではない。その人物のそれまでの存在ごと、無かったことになったのだ。そういう概念の話であるはずだ。セツの時もそうだった。

ただ、食事の写真にはそれが影響しない。俺は確かにその料理を注文して、店員がそれをテーブルに届けたから。その人物の存在とその料理とは、因果関係がないからだ。

俺の仮説が正しいかどうかは分からない。でも今のところはそう考えるより他に無い、気がする。

となると問題は別にある。それが一体誰なのか、というのはひとまず置いておくとしよう。俺が一番引っ掛かっているのは、"なぜ"この俺が、他人を引き連れて旅をしていたのか、という点だ。

D.Q.O.を下りたら、様々な星を一人で巡って、自然と触れ合う旅をしようとずっと考えていた。自分が二人存在することが分かってからは、俺はもう下船なんて出来ないのかもしれないと思っていたけれど、セツは俺に未来を渡してくれた。

そんな大切な未来に、俺が半端な他人を引き込むわけがないんだ。自然を巡る旅は、俺だけの、俺のためだけの、安らぎの時間で。少しでも神経がすり減りそうな瞬間を、わざわざ進んで増やすような真似、この俺がするはずないんだ。

一体どうして俺は、その人と一緒に旅をしていたんだろうか。それが今一番、知りたい。

さっき宿の主人にも、話を聞いた。やはり宿の主人にも、俺が二人連れだったという記憶は無いらしかった。ただ、念のためと確認してくれた宿帳に、それは残されていた。

──"スミレ"。

俺と同室でチェックインした者の名前は、スミレ、だった。

当然、そんな名前の女性に心当たりは無い。考えても、考えても、謎ばかり残る。けれど分からないと思うほど、どうしても知りたくなった。

俺の〝自然を巡る旅〟は、〝真実を探す旅〟になった。

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